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商品コラム
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 上鑑賞刀
   1〜14 刀  濃州関住兼音 文明十九年二月日  特別保存刀剣鑑定書 ¥3,600,000(税込)  
   1〜   大太刀     生ぶ無銘(宝寿)    特別保存刀剣鑑定書 
   1   数々の重要刀剣 / 特別重要刀剣  所蔵しております。
 
 鑑賞刀
   1〜11 平脇指 無銘(越州国行) 特別保存刀剣鑑定書  ¥480,000(税込)
   1〜6  短刀  無銘(寿命)生ぶ拵え  保存刀剣鑑定書  ¥140,000(税込)
   1〜14  刀  無銘(高田)(切付銘:友清摺上)保存刀剣鑑定書 ¥570,000(税込)
 
 現代刀・居合刀・小道具 等
   1〜14 刀   日本魂:加藤寿命作之  千歳丸:皇紀二千六百年  保存刀剣鑑定書      
   1〜5  お守り刀 [ 日本魂  加藤寿命 ・ 千歳丸   皇紀二千六百年 ] 日本郵船歴史博物館資料掲載
         各時代の(形居合用)(抜刀用)(現代刀:鑑賞用) 承ります       

1〜5  お守り刀 [ 日本魂  加藤寿命 ・ 千歳丸   皇紀二千六百年 ] 日本郵船歴史博物館資料掲載
1〜5  お守り刀 [ 日本魂  加藤寿命 ・ 千歳丸   皇紀二千六百年 ] 日本郵船歴史博物館資料掲載 ←千歳丸の写真・資料は、日本郵船歴史博物館提供。<転載禁止>

<< 千歳丸 >>
竣工:   大正10年6月7日
船種:   旅客船
微用種別: 海軍裸傭船 (昭和12年に軍に微用)
総トン数: 2.668トン
長さ:    91・44メ−トル
主機:   レシプロ 1基    最大3、955馬力
速力:   11ノット
備考:   大正10年横浜ドック砕氷型旅客船千歳丸を新造。
大正12年3月31日近海郵船へ現物出資として移籍。
昭和12年陸軍に徴用。
昭和14年9月8日近海郵船との合併により再び復帰
昭和32年8月30日 株式会社 岡田組(東京)へ売却、サルベージ船に改造。
昭和32年11月30日解体のために売却


<< 千歳丸について >>
日本郵船は大正の初め樺太航路就いていた砕氷船は、弘前丸一隻のみであった。大迫港の冬は厳しく弘前丸一隻だけでは不足であったため、大正十年に横浜に、サハリン航路向けに百九十万円投じて建造した砕氷貨客船。砕氷能力は暑さ2フィートの氷を割って進むことができた。パラストを船主に移しその重量で氷を押し割ると、少し後退してはまた前進する方法で、白一色の氷原になった宗谷海峡押し進姿は壮観であった。また、ところどころに群をなしている子牛ぐらいのトドが千歳丸が近づくと流氷の上から数十頭が海に飛び込むその上げる水しぶきはと咆哮はすまさじくまるで嵐のようだった。排水量は2668トン。 なお、戦争中は海軍に徴用されて特設砲艦兼特設砕氷艦に改造。  千歳丸は、横須賀鎮守府に所属する第22戦隊第1監視艇隊に編入された。主に北洋の警備に活躍、昭和20年7月には、戦災で被害を受けた青函連絡船の代わりに就航。 戦後は復員船として、樺太避難民の北海道引揚げ、シベリア抑留引揚げに従事。 その後、東京=沖縄航路に就役した。2000総トン余りの小船ながら北に南に活躍した功労船である。

<< 千歳丸の歴史 >>
[砕氷がた旅客船千歳丸新造]
大正10年に、190万円を投じ砕氷がた旅客船千歳丸を新造。厚さ2フィートまでの氷を割って進む、全速で氷上にのし上げ進み、白一色の宗谷海峡を押し進む千歳丸は壮観あった

[非難中国人を1285人送還]
大正12年9月の時、関東大震災がおこり急遽救助に向かい、2度にわたり非難中国人を1285人を横浜から神戸におくり、引き続き上海まで640人余り送還した。更に長崎に引き返し再度、中国人530人を乗せて上海に送った。そのころは日貨排斥がひどかったが、上海では多大な感謝をもって迎えられた

昭和9年から、鹿児島・長崎・大連の間を航路に就航したが同地方の人々に深く親しまれた

[病院船として戦傷病患者を送還]
昭和12年に、千歳丸は陸軍に微用された。任務は病院船として中国大陸からの戦線から戦傷病患者を内地に送還することであった。病院船となるために必要な改装は笠戸ドックで実地した。病院船としての任務は16年9月まで満4年間続いた。
その間に14年9月の近海郵船との合併により再び当社に復帰している。


<< 陸軍病院船を解除後 >>
昭和十六年九月六日、陸軍病院船を解除になり千歳丸は即日、今度は裸傭船となり、尾崎船長以下全乗り組み員は下船した。 九月十二日から三菱横浜船渠で改装され、十二月一日から大湊警備府に所属する特設砲艦となり、艦長には、佐伯孝二大佐が着任した。 新任務は、絶えず宗谷海峡の結氷状況を明らかにする一方、稚内大泊など北方の重要港の外哨部隊として哨戒の任に就き、時には積極的に敵心潜掃蕩に出かける事もあった。 更に船団護衛にも当りまた、哨戒中にソ連船を臨検して大伯まで連行した事もあった。 昭和十九年四月北方の戦局急迫に伴い、千歳丸は新たに編成された宗谷防備隊に配属になったが任務や哨戒海域には大きな変化はなかった。 五月にはペトロパブロフスクからウラジオストクまで行くソ連船五隻を尋問した事もある 


<< 連合軍の強い要求に基ずいて復員船として活躍した>>
幸いにして終戦まで交戦による目立った損傷もなく二十年二月に稚内付近の岩礁に座礁して簡単な修理をした事があったぐらいで、最後まで無傷のままで樺太・北海道沿岸の警備にあたっていた。  戦後は、第二復員省(旧海軍省)に所属し、復員船として活躍した。 戦後時、海外諸地域にあった我が陸海軍将兵はポツダム宣言によってその復員は約束された。だが軍人軍属以外の一般在外同胞が全面的に祖国に引き揚げねばならぬかどうかという事は、終戦時には不明確であった。
日本政府は事情の許すかぎり多数の者が海外に残留する事を希求していた。   しかしながら、アジア地域のみかぎらず全世界から同胞の故国引き上げが実地されたには現地の事情もさることながら、1つには、連合軍の強い要求に基ずいたものである。


<<引揚者は数字は豪州の全人口に近い>>
一方わが国本土には、多数の朝鮮人や中国人並びに在留枢軸国人がいた。戦勝国としての中国人は勿論、カイロ宣言によって独立を約束されていた朝鮮人、同じカイロ宣言によって中国復帰を約束されていた台湾の出身者などもいて、政府の引き揚げ業務の対象となったものはいわゆる「受入」の対象となる在日外国人とであった。なはでも引き揚げの対象となる在外日本人は、六百六十万人といわれ、その数字は豪州の全人口に近いものであった。 


<< 帰還輸送は最も至難な事業であった。>>
これら多数の帰還輸送を行わなければならない日本の残存船舶は、わずか五十余隻で二十六万トンにしか過ぎなかった。従って、もしそれだけで輸送を行なわねば順調にいっても八年間を要するという、まことに気の遠くなるような話で、帰還輸送という仕事は戦後日本がぶつかった、最も至難な事業であった。
この引き揚げ船の運航に関する占領軍側の所管機関はSCAJAP(日本商船管理局)であって、この組織は二十年十月占領軍の1機構としてG・H・Qの中に設けられた。十一月二十三日からは船舶運営会がSCAJAPの下部機構として引揚者機関の業務にも携わるようになり、運営会には「帰還運送課」が設置された。


<< 高砂丸、氷川丸も加わる中国及び比島からの引き揚げが開始 >> 
この「輸送課」設置に先立って南朝鮮、台湾陸軍部隊の引き揚げとメンヨン島所在の海軍部隊が、二十年九月に「高砂丸、氷川丸」によって帰還したのが、外地からの引き揚げの最初であった。十月に入ると伊豆諸島、小笠原諸島・南大東島・ポナペ・パラオ・ヤップ・トラック・更に中国及び比島からの引き揚げが開始された。千歳丸も十月以後、小笠原・パラオ・台湾などからの復員輸送に従事した。


<< 引き揚げ船の一番遅くはソ連軍管理地区 >>
引き揚げ船の一番遅くなったのはソ連軍管理地区であって、樺太からの正規引き揚げでは二十一年十二月からであった。二十一年七月に第二復員省からの微用を解除された千歳丸は、船舶運営会所属となって一時函館・京浜間の物資輸送に就いていたが・樺太の引き揚げ開始お共に函館に行き、二十四年八月まで真岡・函館間の樺太地区の引き揚げ船となって活躍した。引き揚げに関しては二十一年に米国からリバテー形輸送船百隻、LST百隻・その他の貸与を受けたので、二十五年末にはほぼ終了した。


<< 解除され海難救助となった >>
千歳丸は二十四年八月に樺太地区からの引き揚げ船を解除された後は九州・阪神・京浜との間の航海に就いていtが、二十五年六月には小樽・阪神間の定期航路に就いた。
更に二十七年十月から、一転して沖縄・阪神・京浜の間の定期航路に就き、三十二年六月まで貨客の輸送に従った。
七月再び北海道・京浜間の航路に転じたが、三十二年三十日、株式会社 岡田組に売却さえて海難救助となった


<< 看護婦長・佐藤たまの千歳丸病院船の手記 >>
千歳丸の病院船時代、東京第一陸軍病院から千歳丸の看護婦長に転属になり佐藤たまは、千歳丸の思い出を一冊の本にまとめて出版しました。 昭和十四年八月十八日に宇品で乗船した。 岸壁から少し離れた沖合いに停泊していた千歳丸は、白い船体に緑の線を入れ、両舷と煙突に赤十字のマーークを印してた。 佐藤は、そこで部隊長の古賀彦次郎軍医大尉や、尾崎船長に紹介され、「患者収容所に行った港は上海・南京・大連が一番多かった。 次に天津・青島・唐沽・台湾・台皇島等があった。航海は海の静かな月夜はとても美しく陸上では見られない眺めであった。 また、海が穏やか時にはイルカの大群が泳ぎ廻り船と競争しているようだった。 台湾航路が一番ゆれが激しかった。 船酔いで私が最も多く吐いたには、一日の内18回あった。しまいには吐くものがなくなり、胆汁や血を吐く事もあった。」と慣れない航路の苦労をつづったいる。 次第に船内生活に慣れたようで、乗組員たちとも親しくなり海と船の知識も深めた事を記にしている。
看護班は、班長医師一名 書記一名 婦長三名 看護婦二十名 と使丁一から成る編成であって、それが二個班ありました。佐藤たまは、昭和十六年六月に千歳丸を下船したが、その間 一年十ヶ月に千歳丸は四十八航海したと手記に書いている


<< 日本郵船歴史博物館から、千歳丸 日本魂/加藤寿命の資料 >>
千歳丸は昭和十二年から軍に微用されていました。その際に祭られた事は間違いないと思われる。 昭和十五年は、その時、軍医、または船長(商船の船長でも任官していた)が航海と乗員・乗客の安全と、日本国の繁栄などを願い依頼されたと思われる。

<写真・資料提供>日本郵船歴史博物館


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<<刀匠・寿命について>>
寿命は正応ごろ(鎌倉中期)本国は大和と云うが、作は殆ど知られていない。天文ごろ(室町末期)の寿命は寿命の系統をひいていると云われ美濃国に於いて現在の大野市辺りで鍛刀を始めたと云われている。
その後、江戸時代(新刀)に入り、寛永ごろに常陸守藤原寿命。寛文ごろ美濃守寿命となる。他に、天和ごろ弘安斉寿命がいるが新刀では殆どの作は美濃守寿命の作が多い。昔から、「寿命」は名前から縁起かつぎ「延命を願い」所持、または作刀依頼があったといわれ、武家では、ご祝儀として喜ばれている。寿命の子孫は、江戸中期以後に絶えた。

<< お守り刀:加藤寿命について >>
◆時代: 昭和
◆国 : 美濃関
◆種別:  刀
◆表銘: 日本魂  加藤寿命
◆裏銘: 千歳丸  皇紀 二千六百年 (昭和15年)
◆刃長:  64.5cm
◆反り:  1.2cm
◆目釘穴: 1個
◆説明:
本作、加藤寿命は、昭和刀(軍刀)鍛治の加藤寿命で、昭和刀を作刀した刀匠です。当時、関市は軍刀製産地で、「FAQの 関(市)の軍刀産業に掲載」 戦争の真っ只中だった。千歳丸 は航海において乗務員・乗客の安全を願いお守り刀として「寿命」延命を願い「日本魂」その当時の日本国の状況事情の思いが伝わります。
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◆付属品: 刀袋に
      昭和十九年参月弐拾壱日。
      貢、東京駅 三等待合室と書かれてある。
      多分戦争が激しくなりお守り刀が海に沈む事を恐れ
      安全な場所に選んだのではと思われる。
◆東京駅三等待合室とこの(日本魂  加藤寿命)お守り刀とは、どのような関り、意味を持っている場所なのかはわからない
<<<<< 2 茎 表 >>>>>
1〜5  お守り刀 [ 日本魂  加藤寿命 ・ 千歳丸   皇紀二千六百年 ] 日本郵船歴史博物館資料掲載
◆日本魂  加藤寿命 作
<<<<< 3 茎 裏 >>>>>
1〜5  お守り刀 [ 日本魂  加藤寿命 ・ 千歳丸   皇紀二千六百年 ] 日本郵船歴史博物館資料掲載
◆千歳丸  皇紀二千六百年
>>>>> 4 刀袋 : 貢 東京駅 3等 待合室<<<<<
1〜5  お守り刀 [ 日本魂  加藤寿命 ・ 千歳丸   皇紀二千六百年 ] 日本郵船歴史博物館資料掲載
>>>>> 5 刀袋/昭和19年3月21日<<<<<
1〜5  お守り刀 [ 日本魂  加藤寿命 ・ 千歳丸   皇紀二千六百年 ] 日本郵船歴史博物館資料掲載
◆昭和19年3月21日
 貢 東京駅 3等 待合室 
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