目次
【序】と【文化継承を全国の方々と】
「美濃の刀剣と歴史」について、美濃にこだわりを持ったのは、一般には、刀匠は、関に限られていると思われていますが、美濃とは、岐阜県一帯において、西濃、飛騨、東濃、などにも刀匠がいる。意外に知らない方が多い。
尾張も美濃の内に入るが、西濃が美濃伝の発祥地である。後に、関を中心に発展してきたことについては、郷土愛刀家として、関市という地に生まれ、環境に恵まれたことを幸せに思う次第です。
この主題に協力者及び資料提供者の方により、作業進行を可能にしていだきましたことを心から感謝を申し上げます。そして、新たに資料確認の折には、発表して行きたいと思います。
今後も、刀剣鑑定知識上経験から歴史・文化に「美濃の刀匠」の関りを解き明かして参る所存でございます。
尚、当方の身勝手な、貴重な資料などの文章の収縮などに御容赦、御理解をお願い申し上げます。
並びに、各都道府県市町村の伝統文化継承をどのようにして、取り組んでいるのかを、これを起に全国の市町村の方々と文化交流のきっかけになればと思います。 皆様からの御教示、御知恵拝借などの情報・意見を賜りたく存じ上げます。 お問合せの欄にご記入、お願い申し上げます。
※ 未資料の為に、臆測と思われる点などがございましたら、郷土愛刀家と申すところとしてお詫びをしておきたい。
※ お問い合わせの欄、記入の方の情報などのプライバシーについては厳守致します。
◎ 協力者 [自治会・春日町一丁目] [自治会・春日町二丁目]
◎ 資料提供 [自治会・春日町二丁目] [春日神社]
◎ 参考文献 [春日神社]
口上 【美濃刀匠と歴史・文化】
郷土に生まれて育ち現在に至り、幼い時から 春日神社と関の文化との関わりを持ち続けて育って参りました。
長年に至り、刀剣専門家として経験を生かし、美濃関市の歴史・文化、並びに、刀剣に関しての持論を述べさせていただきます。
残念な事に、現在は公共団体・役所は政教分離などのたてまえにて無関心である。
今日ここまで発展した事は、刀剣を基に春日神社を崇拝して来た先祖にあると思います。近年発起された祭りなどには、速、利益に結びつくことは敏感に察し、この時ばかりは、肩書きを変えて神事に参加しているのに、昔からの神事には参加していない。
このような事に、私は大変憤り感じています。イベントとお祭りとは違う、考え間違いをしている。そもそも、祭りとは、神霊を敬い、崇め、感謝の意を表し催する行事です。 それを怠るような祭りでは、イベントです。
また、文化芸術においても、公共の立場を利用して日頃、政教分離を唱えていながら、文化芸術などを公共施設内にて展示し「国指定重要文化財」(春日神社所有)の物を展示し、管理がずさんである。
文化芸術、「国指定重要文化財」をどのように、見ているか?
現代の作家の絵などを、関市とは関係ないと見てよい物を、多額の費用をかけて、展示室まで作る。
文化芸術に無関心が、このような形で現れる。ちなみに、絵画・円空などは、借り物です。長年、文化を継承することは、皆様のご努力とご理解が必要です。
日本は神の国と言うことは普遍的なことですが、一部には、別な考えのお持ちの方もみえると思いますが、日本人は、オギャと生まれては、お宮参り、七五三、初詣、お祭り、スポーツにおいても必勝祈願など、身近に自然に関りをもってきました。 神とは、権力者の象徴ではなく、愛と知恵と安心をあたえ自然に感謝することを教えを戴いていると考えています。 基本に戻ることが大切と言えよう。現在の教育にもいえることでしょうか。
さて、私の氏神様こと、春日神社の春には大祭があります。
本殿の前にて、御歌(吉野山)を御神楽が刀(真剣)を持ち奉納舞いをする。
現在、神楽の御歌「吉野山」を少なくとも、明治時代から正確に解釈されてこなかったことなどが、一人一人が、歴史を正しく理解する事が、文化継承の根本と思いまして、自治会氏子の責任者としても、春日神社と関市の歴史・文化に感謝と愛情を持ち続けていきます。これからも、希望と気概を持って貢献に尽くして参ります。
この後、続いて【美濃刀匠と歴史と文化】について【持論】を述べさせて戴きます。
※ 全国の市町村の神社には必ず、剣、刀まどが古来から現在までに奉納者が多い。
春日神社(本殿)創建年月日
鎌倉中期1288年・正応元年
兼定と観音経について
兼定は全国で最初の受領銘を受けている刀匠です。
兼定は、永正元年(1504)に願主として、法華経普門品第二十五を出版している。
この経を 「永正元甲子九月日」出版月日が観音経、最後に疋定銘が成されている。
永正元は之定銘になっているが、受領銘(和泉守)は受けていない。
この「観音経」は天下一品の珍本と絶賛されている。
この観音経は具体的に書かれていて、分かり易くなっている。
此れについては、福永酔剣氏が清麿会で発表している。
観音様(観音菩薩)は、広く世間の声聞いて救いを垂れる、つまり「世ノ音ヲ観ズル菩薩」と意味から名ずけられたようだ 。
当時(永正元年)これほどのの豪華本を出版には、莫大な費用がかかった事は当然であろう。
兼定の観音経出版を知った時には驚いたが、直ぐ様に兼定なら出来ただろうと思い直しました。
兼定は何故に、これほどのことを、やってのけれたのだろうか?に付いて考えて見たい。
此れについては「武田と日蓮宗との関係」を後に述べてみる。
※ 現在・観音経、法華経普門品第二十五版は「大英博物館図書館所蔵」です。
所有者はイギリスの故・アーネスト・メイソン・サトウ氏のコレクションの中の一部です。
アーネトサトウについて
サトウ氏はイギリスの外交官で長く日本に滞在していました。来日されたのは、明治元年から同年17年まで在日しました。
2回目は、同年28年から33年まで在日。日本の古版本に付いて研究し「日本耶蘇会刊行書誌」を出版している。
日蓮聖人とその愛刀
日蓮聖人は、1274年5月17日を身延入山の日。
1281(弘安4)年11月24日、本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山久遠寺」と命名されました。
日本に伝わった「妙法蓮華経」は、聖徳太子の著書「法華義疏(ほっけぎしょ)」のなかで仏教の根幹に置かれるなど、最も重要な経典として扱われます。そして鎌倉時代、日蓮聖人によって「妙法蓮華経」は、「末法救済のためにお釈迦さまによって留め置かれた根源の教えでる。」と、説かれたと伝えられています。
現在・山梨県・総本山身延山久遠寺は1475(文明7)年、第11世日朝上人により、現在の地へと移転され、伽藍(がらん)の整備がすすめられ、後に、武田氏の頃や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄える。1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています。尚、皇室勅願所ともなった時期は、昭和時代からのようです。
日蓮聖人の愛刀
「国宝・数珠丸恒次(古青江)後鳥羽上皇の十二人番鍛治の五月と六月」
入山の際に、持参したと伝えられている。恒次は、中青江まで続く。ここで簡単に、古青江と中青江の違いの特徴を述べる。地金の違いが現れ、青江には、ちりめん肌といわれる独特の地肌がある。
≪資料提供≫ 身延山久遠時
能舞台の由来
奈良の春日神社の御神体の分身を勧請した能舞台は、室町時代と推定。
建築史上、古様式の桁のない四本柱建能舞台として稀に見る珍しい能舞台です。
後に、寛文5年8月に関領主大島雲八によって改築され原型を踏襲した。
名刀 大島行光 / 大島志津
大島家の名物・大島行光と大島志津があります。
大島行光は「享保名物帳」所載の平脇差。大島茂兵衛光義所持。
雲八の次男、豊臣秀吉から千石を与えられていたので、弟の光俊と伏見城を攻めている。
光義は不遇の道をたどる。この間に「行光」を手放したではないか。
後に、一万石の旗本加々爪甲斐守直澄の所蔵になる。 そして、会津、四十万石の太守・加藤民部少輔明成が所持。
後に、明成の子・明友は一万石に転落したが、「行光」は同家に伝来した。
現在においては不明である。
大島雲八ついて
美濃関一万八千石・美濃の生まれと言われていましたが、近年の調査で関村(現在の関市)に永正5年(1508)生まれであることが分かりました。
大島雲八がつかえた大名は始めは、長井隼人佐道利・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕え、弓の名人と知られている。 豊臣秀吉に仕えた時、弓頭となる。
雲八と長男「光成」は、徳川方につき、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの功績により、本領、美濃関国一万八千石を安堵された。
住まいは、現在の春日町一丁目から新町までがお屋敷。大島邸の木戸が(現在)の春日町二丁目。
現在の(当店)の位地にありました。雲八が死去後、子孫は幕臣となる。
関鍛治七流は徳川家康の時代から
天文3年生まれの若狭守氏房の添書に、「前略・・・藤原氏之祖神、春日大明神為鍛治之氏神故継藤原之氏於此社自往古毎年正月28日有神事能七流之鍛治勤之・・・」とある。
美濃鍛治中興の祖と言われる関七流の起源が室町時代にあると言われているが、又、これも問題の1つである。
[ 善定兼吉、他数人 ] [ 三阿弥兼高、他数人 ] [ 奈良兼常、他数人 ] [ 得印兼久、他数人 ] [ 徳永兼信、他数人 ]
[ 良賢兼船、他数人 ] [ 室屋兼在、他数人 ] など
上記、銘の関七流の起源が室町時代に切った物が現在までには、経眼したことがない。おそらくこれについては、現在迄の刀の鑑定上から考えると江戸初期頃から、或は、寛文新刀と思われる物がある。
(美濃鍛治七流の起源は江戸時代からと思います。)
新刀期に諸国大名に抱えられ、他国で関七流と切った物を拝見した事があります。
おそらく、出身地を誇りに思い、銘を切ったことでしょう。
美濃は、第一期は兼氏・金重、第二期は兼定・兼元と美濃は繁栄した。
室町末期戦国時代が終り、時代が変わると共に、刀匠は諸国大名に抱えられ、美濃鍛治は衰退する。
これにより、関鍛治中興の祖と言われる美濃鍛治七流は、江戸時代から発起し衰退に刃止めをかけたと考える。
※愛刀家の皆様に、お尋ね申し上げます。
美濃鍛治七流一派 [〇善定・〇三阿弥・〇奈良・〇得印・〇徳永・〇良賢・〇室屋]
慶長以前の七流一派に刀匠銘の切った刀剣を拝見したとこがある方、また、所持している方、是非とも情報をいただけたらと思います。
織田信長・豊臣秀吉は能の愛好家
戦国時代から桃山期の能楽は、応仁の乱以降の幕府の弱体化や寺社の衰退期。
武将では織田信長は、能に対して好意的だったことが、豊臣秀吉は、ことのほか愛好家だったらしく、自らも好んで舞ったようだ。
この時期、豪華絢爛の桃山文化の装束も一段と豪奢になった。
関市、春日神社・所持の雪持柳揚羽蝶文「国指定重要文化財」は、この時期の作。
関市・春日神社の能を刀匠が舞ったではないかと長年伝えられてきたがそうではないと考える。
現在、縫箔 雪持柳揚羽蝶文「国指定重要文化財」の装束を身にまとい、関市春日神社での、能の舞は、能役者が舞ったと考える。(大島家お抱えの能役者が舞う)
それには、多くの「座」のうちから大和四座に扶持を与えることを定めました。
以来、能役者は、社寺の手を離れて武家の支配を受けるようになる。
徳川家康も秀吉の制度を踏襲し、知行や配当米、扶持などを役者に与えて能を保護しました。
武家が能役者を支配し抱えていたと思われる。
能の源流は、奈良時代までさかのぼり、大陸から渡ってきた芸能です。
鎌倉中期頃には猿楽の集団も寺社公認のもと「座」の体制を組む南北朝の頃は、大和猿楽と近江猿楽があらわれてきます。大和猿楽は、猿楽四座は(観世・金春・金剛・宝生座)のうち名手、観阿弥を生みました。
室町後期には「手猿楽」と呼ばれる素人出身の能役者が、京都などで大いに活躍しました。謡曲を能から離れて謡ういわゆる「謡」が流行したのもこの時期からで、能が町人階層にも広く愛好されていた。
能面
桃山文化は、豪壮な能舞台の様式が確立され、装束も一段と豪奢になったほか、能面作者にも名手が輩出し現在使われている能面の型がほぼ出揃いました。
現在、春日神社の能面・狂言面ほか61点あります。時代は、室町・桃山・江戸時代ものまである。
「若女」に小面写、永和2年(1376)年三月日金春元安(花押)記念銘の中で、日本最古の物と云われている。
「笑尉」(わらいじょう)は彫銘「一トウ作」とあり、室町時代の有名、彫刻師の名が見られる。
狂言面「乙(おと)」他と比較すると古様で素朴な作。わが国の仮面様式研究の貴重な資料と言われている。
大島家と神事能・能装束の関係
摺箔・縫箔・金襴・銀欄などを施したきらびやかで、この時期は、豪華絢爛の桃山文化の特徴で、装束も一段と豪奢になった。
能装束については、「縫箔雪持揚羽蝶散し」寄進者は、関領主の大島家からとおもいます。
その理由については、大島家の家紋が「揚羽蝶」です。
能装束の制作年代とが略一致する大島家と春日神社とは少なくとも桃山時代から深い関りがあった。
春日神社の大祭に御神体が大島家、現在春日町一丁目(旧新町)にお旅になられ、一晩お泊まりになられる。
このような神事からも考えられる。
※ 縫箔 雪持柳揚羽蝶文「国指定重要文化財」
※ 縫箔 雪持柳松皮菱文「国指定重要文化財」 昭和31年6月指定 室町時代~桃山時代
金重と春日神社の創建の関り
一般に云われている創建(鎌倉中期1288年・正応元年)の神社の棟札により、伝えられているようだが、これに関わったとされている。
関刀祖の名工・金重と仰がえられ、大和出身とも云われている。 正宗に入門した時期(鎌倉末期)年齢は61歳と云われています。 春日神社の創建の年には金重は25歳前後とみる。
この以前には、金重は越前敦賀・清泉寺の僧となり法名・通阿弥と言う「元亀元年本」にも越前敦賀住と記載。
春日神社と金重とは、何等かの深い関係があったと思われる。
金重は関の刀祖である
諸説の中、九州出身の元重が関刀祖とも云われているが、これは、疑問である。
元重の子が金重とも云う異説がある。これについては、現在の所、元重の刀は発見されていない。
元重とは、初代金重のことを言うのではないかと思われる。
金重は、関の刀祖である。初代金重の在銘は、一振りしか現存していない。
作は極めて稀である金重は後に、相州の正宗の門下十哲の一人となり著名。
金重については、後に、詳細に説明致します。
※ 尚、兼永(室町時代・応永)は春日神社に刀を寄進している。
春日神社の奉納舞 [吉野山] を刀剣専門家として解く
春祭り、旧4月15、16日に、現在では4月第3(土・日)に春日神社のお祭りがあります。
春日町二丁目には、本殿の前にて、御歌(吉野山)のお神楽を奉納する。
刀(真剣)を持ち奉納舞いをする。以前には、獅子頭は鹿頭で鹿の舞いであった。
この奉納舞こそが、刀匠の舞である可能性が高い!
現在は、神楽獅子の刀の舞いは五色の紙幣にて清浄に祓い招福除却の神楽ありとして、五色の紙幣を吹雪の様に散らす。
おそらく明治時代から現在までにいたるまで、吉野山の御歌は、「吉野山雪かと見れば花の吹ぶきかな」の意味と理解している様だが異なる、このままでは、(大和の吉野山を見れば桜花が雪のように吹ぶいている)としての理解になってしまう。
現在の、吉野山の舞いと、御歌が一致しない。
そこには、歴史や文化が何も見えてはこない。
このまま脈々と舞を続けて来た事が、現在の文化継承の刃止めとなっている原因の1つとではないかと心し、「松尾芭蕉と宜竹と吉野山♪~の関係」についても、「吉野の山を雪かと見れば、雪ではあれで、や、これの、花の吹雪よの」の引用ではなく、郷土の歴史と文化を正しく理解及び自覚する事が、文化継承の根本ではないかと思い、後世に継承を願いたく、関の伝統文化、歴史、舞の振り付けなどを、尊重して、刀剣知識と共に、「奉納舞い お神楽の御歌 吉野山」を、解き明かし、説明致します。
奉納舞こそ 刀匠舞い!これを大和に見る
奉納舞(吉野山)こそ、刀匠の舞い春日神社、春の大祭りに、関刀匠の元祖、大和伝の故郷と奈良吉野山の美しい桜を刀に見立て、刀の出来の美しさを誇り、故郷を懐かしく思い、五ヶ伝(山城・大和・備前・相州)の内、美濃伝を確立した。
それらを、刀祖春日神社に感謝こめて古来は、刀匠が奉納舞いをする。
※ 五ヶ伝の内では、美濃伝は少し遅れて発展した。
吉野山の句・歌・意味 (1)~(4)
(1) 直訳
「吉野山、見れば雪の刃、おや、これは、ええがな、これが花の吹雪の山よこれがな」と歌っている。
(2) 句
「吉野山見れば雪のは花吹雪きかな」
(3) 舞いと御歌の総合意味
「故郷の吉野山の桜が懐かしい、刀を見れば、これは良い出来ばえ、雪の吹雪が花ように散りつき、
真っ白く冴えた美しい刀よ」
(4) 奉納舞の御歌 「吉野山」
よほ・・・しの、ゞ、のほ・・・・(吉野)
ノホエヘエ(のーおえ)ゞゞゞ
やーまーあーはあ、ゞゞゞ(山)
はゆうき・・ひ・・か・・は・・・・・(刃雪か、刃、刃、刃、)
のほえへえゞゞゞ(ノーオエ)
みれーばーあはあ(見れば)
はゆう・・きひ・・(刃雪)
おやあー(おやー)
こほおをれ(これ)
えゞがなーは(ええがな)
ノホエヘエ (のーおえ)
は・・あなは・・あ(花)
のーほ・・・え、(のーおえ)ゞゞゞゞ、
おぶーきい・・・よおがとほ、ゞ、ゞ(吹雪)
やまこほれえゞがなは・・(山これ、山これがな)
※ カタカナは歌詞( )中は現代歌詞に直してみました。
「・」は前の字を「・」の数だけくり返す。
「ゞ」はお囃子の様なもので同じく、数回くり返す。
※ 一部省略
刀剣から見る吉野山
「吉野山」 関刀匠の刀祖大和伝の故郷、大和吉野山は桜の名所として有名です。その御歌の吉野山とは、「大和伝の刀と桜花」を意味して、見立てて表現している。
「雪の刃」 「刃雪」「雪」焼き刃の(沸え・匂い)を意味している。
「花の吹雪」 沸え・匂いが(吹雪き)のように、散ってついていることを意味している。
別名、飛び焼き、または皆焼きとも言う。
「雪の吹雪」 刀剣の代名詞。沸え、匂いが吹雪のように、散ってついていることを言う。
≪例え≫(濃州関住兼則・他新刀)
「山これが山」 刃文を意味している。
「雪山」 刀の鋩子に沸えが多く積もる様に見えることを言う。
「ええがな」 いいなー・良い(関の方言)
「雪教え」 笹の葉に初雪が降ったように、真っ白な沸え、匂いが豊かにつくことを言う。
「霜華」 刃文が純白で美しく輝く初霜の花にたとえた。
「秋水」 刀の澄み切った光を秋の濁りない水にたとえた。前者・共に刀剣の代名詞です。
松尾芭蕉と宜竹と吉野山♪~
先にも紹介したが、持論であるが、刀からの鑑定と、御歌「吉野山」の歌詞の意味から、おそらく地元、春日神社、吉野山の御歌は、美濃鍛治七流の起源、江戸初期から、寛文頃には、現在の様式の神楽の御歌・吉野山は歌われているのではないか。 関鍛治中興の時、俗世が平和で華やぐ時代になりつつある時であった。
宜竹は竹の一節切使って尺八とした物が宜竹はこの名手で名工であった。 別名(藤三郎)。
その一節切の代表の歌に「吉野山」がある。
その歌詞は、「吉野の山を雪かと見れば、雪ではあれで、や、これの、花の吹雪よの」
この句は、事実をふまえたものとされている。 春日神社の御歌なども「吉野山雪かと見れば花の吹ぶきかな」と解釈されいるが、事実、神楽「吉野山」の歌は類似しているが意味が異なる。
- 芭蕉の句に「まず知るや宜竹が竹に花の雪」芭蕉が、延宝5年(1677)34歳の作。
- 「待つ花や藤三郎が吉野山」延宝7年(1679)36歳の作がある。
- 芭蕉が当時の流行歌の、名人宜竹の尺八で(吉野山)を聴いていると、吉野の桜吹雪が目の前に迫ってくるようだと。芭蕉は宜竹を贔屓にしていたようだといわれている。
- 一節切りまたは一節切り尺八の代表歌がある。
- その歌詞「吉野山」に一節切りの名工で名手の宜竹が奏でる名曲はどのような調べだったでしょう。
- ♪♪~♪~♪♪~ それ等と、春日神社の、吉野山と同じ曲?
- 春日神社の吉野山の奉納舞いは、江戸時代頃から現在の神楽様式に変わった可能性がある.。現在の獅子頭は、寛政に作られている。
- この以前の獅子頭(現在保存)は推定江戸初期の作であろう。古くは、鹿頭で鹿の舞いであったが、この様なことから、奉納舞の御歌「吉野山」は、以前から、あったとも思われる。例え、江戸時代頃から吉野山が引用であれ、如実に、郷土の文化・歴史の意味に、相応しい、歌に作られている。
- 故郷、刀祖に感謝し楽しく舞った事だろう。長年、伝承して舞続けてきたことを、誇りに思う。
一休さんも、一節切(ひとよきり)
中世から江戸中期まで尺八といえば、節をひとつだけ含み、現代尺八より短い一節切でした。有名な一休さんなども愛用していた。
戦国時代から江戸にかけての武将などにも一節切(別名・ひとよきり)は愛好されていました。なお、一節切は江戸中期に廃れ、それ以降は使用されなくなったようです。
現代のような根を使った尺八が出るのは元禄以降からと言われています。