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展示室
刀剣春日堂
時代 室町時代後期
美濃国
鑑定書 第六十二回 重要刀剣
平成二十八年十月十八日指定
附帯 拵え(櫃:小柄)
法量
長さ 29.4cm
元幅 27.0cm
目茎穴 二個
茎長さ 10.2cm
反り なし
形状
形状 平造、三つ棟、身幅広め、重ね薄く、反りつきにく。
刃文 尖り刃に互の目交じえ、小足はいり、表はところどころ三本杉となり、表裏の乱れ揃いごころとなり、匂い勝ち小沸えつき匂い口明るく冴える。
板目に杢流れる肌交じり、やや肌たちごころ、地沸え細かにつき、地景入り白け風の映り立つ。
鋩子 乱れ込み、先くびれて小丸に返って地蔵風となり、返り倒れ気味となる。
生ぶ、先浅い刃上がり栗尻鑢目桧垣、指表目釘穴した大ぶりの二字銘はある。
説明
兼定(の定)と並ぶ室町後期の美濃鍛冶の代表格が兼元である。
兼元は相継いでいるが、最も技術的に優れているのは二代で、世上この兼元を指して「孫六兼元」と呼称し習翫している。
兼元は各代とも三本杉と称せられる尖り互の目の連れた刃文を得意として焼いているが、代が下ると尖り刃に形が鋭角的で規則正しくなるのに対して、二代は互の目の頭が丸みをおびて変化を見せ、三本杉・四本杉・五本杉があるなど様々なパターンを見せ画一的ではないのが特色である。
この短刀は、鍛えは板目に杢・流れ肌交えて、地沸えつき、地景はいり、かねが白けて映り風に立ち、刃文は尖り刃に小互の目を交えてところどころに三本杉が型にはまらず行書に乱れるようには孫六兼元の特色が良く表示されており、地刃に共に明るく冴え、優れた出来栄えを見せている。
また、鮮明にきられた銘字も好ましい。
             「公益財団法人:日本美術刀剣保存協会・重要図譜より」
兼元孫六(二代)
孫六兼元とは二代を言う。
終生(岐阜県大垣市)赤坂で鍛刀している。
作刀期間は永正(1504〜1523)ごろ始まり、大永・享禄・天文に及ぶ。
戦国時代の武将、武田信玄・豊臣秀吉・黒田長政・前田利政・青木一重など多くの武将が佩刀し、実用性をもって知られる。
特に青木一重所持の青木兼元は朝倉家の真柄直隆を討ち取った刀として有名。
前田家伝来の二念仏兼元は、斬れ味で著名である。

濃州赤坂兼元作 大永3年2月日 1523
兼元作     大永七年二月日 1527
濃州赤坂兼元作 享禄二年八月日 1529

                              などの作例がある
二念仏兼元 [東京国立博物館蔵]
由来。前田利政(父・利家:兄・利長:兄弟・利常(利長の養子)が、慶長3年(1598年)に能登21万石を与えられて初めて入国した際の話。
供先を横切った不届き者の道心坊主を成敗したところ、斬られ二度「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えてから倒れたという。

前田利政の父、加賀藩初代藩主・前田利家は、キリシタン大名として有名な織田信長や豊臣秀吉に仕えた武将高山右近(南坊等伯)を加賀藩に客人として迎え、26年間過ごし、金沢城の修築、高岡城築城、惣構の築造など金沢の町づくりにも大きく関わり、加賀の芸術にも影響を与えたと考える。
右近に救いの手を差し伸べた前田利家の菩提寺は曹洞宗:宝円寺ですが利家は洗礼名クリスチャンネーム「オーギュスチン」を受けているとも云われている。
金沢城(加賀)の菱櫓は南蛮寺(教会、京都)と似ているという。
右近の信仰受け継ぐ南蛮寺(隠れキリシタン寺:教会)七尾市にある隠れキリシタンの寺「本門法華京都妙蓮寺末揚柳山 本行寺(ほんぎょうじ)」そこには高山右近の愛刀(鍔 :十文字)も残されている。

さて、二念仏兼元の来歴は最初、前田利家の二男である孫四郎こと前田利政(大納言前田利家の次男侍従、能登守羽柴能登侍従)の所持。
二念仏兼元は駕籠の脇にいた供衆のいずれかの刀であり、道心坊主を斬ったあと利政により召し上げられたという伝えがあります。

前田利政は前田利家とまつの間に生まれ、この家系は「前田土佐守家」と呼ばれ加賀八家のひとつとして重きをなした。利政は秀吉の遺物として貞宗の脇指を拝領。
前田利家逝去 の際には、国光、国俊、吉光の短刀を拝領。

後に利政の長男、前田土佐守家2代目の前田直之(前田三左衛門)に伝わる。
前田直之は万治2年(1659年)から延宝2年(1674年)まで小松城代を務めたとされ前田綱紀(加賀藩4代藩主)に前田直之より献上された。
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時代 南北朝期
美濃国関
鑑定書 第二十回 重要刀剣
昭和四十六年六月一日指定
法量
長さ 29・8糎
反り 0・3糎
元幅 2・9糎
目釘穴 2個
茎長さ 9・5糎
反り なし
形状
形状 平造、三つ棟、重ね薄く、身幅広く、寸延びごころに反りつく。
刃文 のたれに互の目交じり、湯走りかかり、砂ながし交じり、匂い深く沸よくつく。
板目肌、総体に肌たちごころなり、棟よりに柾がかって流れ、地沸えつき、地景入る。
鋩子 直ぐに先尖りごころに返る。
彫物 表にしけつ、裏は素剣に爪。
生ぶ、先栗尻、鑢目不明、大振の二字銘あり。
説明
平造、生ぶ茎、金重在銘の短刀である。
金重は正宗十哲の一人で、美濃の国関市に住し、兼氏と並んで、美濃物の一源流であるその現存する有銘の作は極めて少く、この短刀はその姿造込みから南北朝期の時代は明確であり、刃文や出来にこの刀工の特色がみられる。
彫物は表は密教で護摩をたく時に大壇の四方に立てる柱であり、表裏ともに不動明王を象徴している。
             「公益財団法人:日本美術刀剣保存協会・重要図譜より」

金重の現存するは、本作を含めて二口(一口は旧所有者:徳川家)が確認されている。
現存する有銘の作は極めて少い金重は美濃物の一源流の美濃関鍛冶刀祖である証とする現存する貴重な資料でもあります。幾多の変遷に、保持・伝承された賜物です。

本作は、大和伝は基より相州伝の特徴も表れている金重は、正宗十哲の一人である伝えは肯けるする。 正宗にも宗教的な護摩箸の透かし彫り、観世正宗など鎌倉時代には不動明王信仰が盛大であったと云われている。

本作に触れてみると、軽く手持ちが良い。金重の崇高な精神性を感じる。
金重(刀匠)は僧、神僧(修験宗・修験者)
金重の本国は越前国(現在の石川県と福井県北部)の法号は「道阿弥」という僧である金重は神僧(修験宗・修験者)でもあった。
それは表にしけつ、裏は素剣に爪の彫り物から鑑みる。

本国、越前・美濃・加賀は、山岳信仰(白山信仰)が根強く信仰されている。
彫りの名手に備前景光も白山権現の彫がある。

所謂、金重は越前の出身の僧であり、四?彫り物は白山信仰の修験宗であるとしても過言ではない。 修験者は厳しい修行に短刀を携えるに本人(金重)が所有していた短刀であった可能性は高い。 厳しい抖?(とそう)には精神性に不可欠の短刀であったと思います。

備考:
日本では古来より山岳は神霊が篭る聖地として信仰する風習があった。 初めは熊野・吉野山などが山岳での修業によって験力を会得した密教の験者(修験者)の拠点であった。
その後羽黒山・日光・白山・伯耆大山・彦山なども修験の霊場として盛んになった。
越前では白山で修業したと伝える泰澄の影響が強く、白山信仰は平安末期以降、広まっていった。
白山信仰が高まるにつれ登拝者が増え、その登山道を禅定道、集合場所を馬場といい加賀・美濃・越前の三つの禅定道と馬場が成立した。
越前馬場の中心は白山中宮で、平泉寺が平安時代からその拠点となった。
その後、平泉寺は天正二年(一五七四)の一向一揆で焼亡し一時衰退した。
                        「福井市史より:宗教と文化」
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時代 江戸時代中期
伝来 小笠原家
鑑定書 特別保存刀装具
総金具 色絵魚子地三階菱紋散らし
分銅型色絵魚子地に三階菱紋
目貫 色絵鳳凰金無垢
金梨地菊唐草文蒔絵
付帯
太刀 古一文字 銘 重久
時代 鎌倉時代初期
備前国
鑑定書 特別保存刀剣鑑定書
古一文字 重久について
福岡一文字は備前福岡庄において、鎌倉時代初期から中期まで栄えた。
福岡一文字派は則宗を祖として鎌倉時代に興り、繁栄した。その中で、則宗をはじめと
して助宗・宗吉・成宗・宗忠・重久・貞真など鎌倉初期に活躍した刀工たちを、別に古
一文字と称している。古備前に比して丁子が目立って整い、映りが鮮明となるが、鎌倉
中期の福岡一文字ほど華やかではなく、古備前同様に小沸出来である。鎌倉初期の重久
と在銘であるところは貴重です。
衛府太刀の説明
衛府太刀の歴史は平安物語に長谷部信連が「衛府の太刀なれ共、身をば心得て作らせた」
とある。そのころには衛府太刀は儀仗化していたことをしめしている。
政権が武家に移っり衛府太刀は昔ながらの衛府太刀で、中身はつなぎを使用していた事 もあったと伝えられています。

とくに江戸期に入って蒔絵の衛府太刀うを武士・諸大夫公家の佩く蒔絵の太刀に代々に
家宝であった真剣に合わせて衛府太刀を制作されたこのころ五位以上になると狩衣・太
刀が許され公家太刀と称した。この衛府太刀には太刀・金重に合わせて制作されている。

本作の衛府太刀の金具は、色絵総金具、三階菱紋金無垢で、魚々子地は見事であり、入念な仕事をしている。衛府太刀は公卿の佩用、蒔絵の太刀儀仗である蒔絵の太刀をいう。
鞘は沃懸地にして階級より蒔絵・螺鈿などがある。

武家も儀仗などに諸太夫、五位上になると狩衣・太刀を許され大名家に輿入れのさいに、
持参する事もある。

衛府とは、皇居警衛の役所で、弘仁二年(811)以来、左右の近衛・衛門・衛兵など
所謂六衛府にわかれていた。
名門 小笠原家について
小笠原家は清和源氏の新羅三郎義光の流れをくむと伝えられた名族。
鎌倉時代には、信濃国伴野莊の地頭職を得てここを拠地とした。尚、武家礼法「小笠原流」で知られている。
武田信玄が滅んだあと、徳川の勢力が信濃におよんで小笠原貞慶(さだよし)のときこれにに従う。後、下総古河に、その後、貞慶の子(秀政)信濃松本、八万石の領主であったが、大阪の陣で戦死。子、忠真(ただざね)家督を継ぎ、将軍家光の時、寛永(1632)年に、豊前小倉に移封された。これまでの実績もあって薩摩を初めとする。
有力外様のひしめく九州にたいする、お目付け役とみられる。徳川期の小倉・小笠原氏には、名君はいないといわれ、これより十代にわたって在封したが、幕末には長州軍戦いで自ら城を焼いたのちに、和睦を結び長州藩に移譲され、明治維新を迎え、小倉城主として、ここで終わる。
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